この頃になって、やっと気づいたことがある。

自分は勝手にできるようになった、或いは初めからできていた、と思ってることが、全然そうではないのだ、という事。


ピアノも小さい頃から、母が先生を見つけ、習わせてくれた。
それだけでなく、幼稚園の頃は、家でも学習を母が続けてくれた。
「ツェエーゲー」「ツェエフアー」「ハデゲ」・・・
音より、母が発するこの呪文の方が残っている。
当時は呪文と思っていたドイツ音名、お陰で今でも和音は瞬間的に分かるし、何もなしに思い浮かべれるし、音大にも進めたし、こうやって絶対音感インストラクターもやってる訳で。
初めはお寺のオルガン教室だった。
何十台も並んで同時に弾き、先生が回ってきて○するという、とんでもないものだった。
4歳位だったから、広大な部屋にオルガンが遠くまで限りなく並んでるように思えた。
自分では覚えてないが、こんなの嫌だ、ピアノが習いたいと言ったらしい。
そして、母がその近くで先生を見つけてきた。
自宅は初め電気オルガンだった。
最後の低音の鍵盤が足りず、一緒に習っていた2番目の兄がその鍵盤の代わりに左端に付いてるスイッチを押し、ひっくり返るというパフォーマンスをいつもしていた。


今、年長年少の兄妹を一緒に教えているが、どちらも嬉しそう、とても仲のよい兄妹だ。
お兄ちゃんは張り切ってるし、妹はキャッキャ喜んでる。
私もこんな風に楽しんでしていたのだろう。
改めて兄にも感謝である。


その後、小型ながらもピアノを買ってくれた。
その日からピアノは私のおもちゃとなったのだろう。
新しい楽譜をもらうとすぐ最後まで弾いて遊んでいた。


毎年発表会にも出た。
その頃近くにホールがまだなかったため、厚生年金会館で行われた。
幼稚園の時は「人形の夢と目覚め」を弾いた。これが初舞台?
1年生になる春休みは、「みにくいアヒルの子」のオペレッタをした。
私は新1年生で揃えたアヒルの子の一人。
ピアノは「すみれ」、6手連弾「軍隊行進曲」。
2年生でクーラウのソナチネ
覚えてるものだ。
壁に貼りめぐらせた紙に、音楽用語を使った絵を描いたり、キャンドルサービスもした。


厚生年金会館小ホールは、その後芸術ホールと名を変え「天保十二年のシェイクスピア」「It runs in the family」で上川さんが舞台に立った。
私の方が先だっ!


母が探してくれ、色々な事を教えてくれた先生であったが、ある曲を弾くと頭が痛くなるのがあって、やめてしまった。
直後、先生は結婚して鹿児島に行かれた。
結婚披露パーティに呼ばれた。


やめたとは言え、当時やっていたソナチネアルバムの曲は全曲勝手にしょっちゅう弾いていた。
小3になり、その先生の紹介で新しい先生に付いた。
その先生に「今まで何を習ってきたの。」と言われ、改めていい加減な弾き方に気づかされた。
発表会でボッケリーニのメヌエット
ある時、先生が和音を色々弾き、「これが分かる人はそんなにいない、あなたはいい耳を持ってるんだから大切にしなくてはいけない」と言われた。
それを最後に先生は入院され、しばらくして訃報が届いた。


それからも母は先生を探してきてくれた。
引っ越したりで何人か代わり、高校の時、音大へ行きたいのなら、と前から知っていたが厳しいから言わなかったらしい先生につけてくれた。
その先生は、ぼやぼやしたいい加減な私の意識を引っ張り上げ、作曲の先生も紹介してくれた。


こう思えば、母は私のために随分、尽力してくれたものだ。
練習に付き合うのも大変だし、先生を探すのもそう簡単ではないし、月謝だってバカにならない。
私は自分で、いつの間にかできるようになったと思っていた。


勉強もそうだ。
従姉からたくさん伝記を貰って、紐で縛ってぶら下げて運んでくれた父。
100冊くらいあった。
私は毎日2冊づつくらい読み、何度も繰り返し読んだ。
それからも、兄のお古など、家にあった本は隈なく読んだ。
読めない漢字がたくさんで、適当に想像して読んでたので、後で読んだら勘違いしてたものもあったりした。
国語には苦労したことがない。
これは小さい頃からの読書のお陰だと思う。